非常に残念なニュースが飛び込んできました。
競艇界の第一人者、『艇王』こと植木通彦選手が引退を表明しました。

SG10勝、生涯獲得賞金22億余円を稼ぎ、ファンからも絶大な人気を得ていた植木通彦選手。
野球でいえばイチロー選手、競馬で言えば武豊騎手クラスのトップレーサーの引退。
今年4月、39歳になったばかりの植木選手は、20年の「永年功労賞」を受けるその日に、選手生活にピリオドを打つことになりました。
競艇の選手寿命は長い方で、65歳になっても現役を続ける選手がいるくらいです。
そんな競艇界において、39歳の引退は早すぎます。
植木通彦選手は常々
「トップクラスで戦うことができなくなったら引退する」
と言っていたそうです。
しかし、今年のSG総理大臣杯では優勝戦に進出するなど、十分すぎるほどトップクラスであったはず。
やはり引退は早すぎます。

競艇漫画のタイトルにもなった『モンキーターン』。
その『モンキーターン』の生みの親は飯田加一選手ですが、全国に広めたのは植木通彦選手でした。
当時、まだ一部の選手にしか浸透していなかった、腰を浮かせて旋回する『モンキーターン』を駆使してSG戦を勝ったことで『艇界の革命児』とも言われました。
いつでも、どこでも全力投球する姿勢がファンにも伝わり、いつしかナンバーワン選手だけに与えられる称号『艇王』と呼ばれるように。
しかし、強いがゆえの重圧、常に人気を背負って走るプレッシャー…。それが引退の原因となったのでしょうか?

植木通彦選手といえば競艇史に残る有名な伝説が残っています。
1986年にデビューした植木通彦選手は、選手生活3年目の1989年1月16日、桐生競艇場でのレース中に転覆した際、後続艇のペラで顔面を切り刻まれ、全治5ヶ月、傷の縫合に75針を要する重傷を負ってしまいます。
この時、救急車の中で、付き添いの競艇場職員に「スタートが正常だったか否か」の確認を求めたという逸話が残っています。
さらに凄いことに、その怪我から復帰する場所に桐生競艇場を選んだのです。
普通の選手は負傷した競艇場での復帰を避けるはずですが、植木通彦選手は自身を奮い立たせる意味を込め、復帰戦の場として怪我をした桐生競艇場を選んだのです。
この経緯から『不死鳥』の名が植木通彦選手に与えられる事となりました。
1993年の総理大臣杯でSG初制覇。
1995年には、住之江競艇場で開催された第10回賞金王決定戦で優勝。
連覇を狙った中道善博との艇史に残る死闘は、今なお語り継がれる名勝負となっています。
1996年には公営競技では初の賞金2億円を突破するなど数々の記録を更新しました。
2005年の笹川賞を最後にSGタイトルからは遠のいていましたが、今年の2007年チャンスが訪れました。
平和島競艇場で行われた総理大臣杯。
優勝戦に1号艇で登場した植木通彦選手。
圧倒的1番人気を背負ってのレース。
しかし、僅かコンマ01ですがフライングを犯し、売上の9割以上にあたる17億4522万7700円という記録的な大返還の原因となってしまいました。
このフライングにより、植木通彦選手は今後1年間、賞金王決定戦競走を除く全てのSGへの出場資格を失ってしまいました。
さらに、フライング休み明けの2007年6月15日からも、GTには規定に基づき6ヶ月間選出除外となることが決まっていました。
このフライングが引退を決めたのでしょうか?
誰もが『不死鳥』植木通彦の2008年の復活を信じていた矢先の引退表明でした。
詳しいことは、今日の記者会見を聞いてからですが、あまりにも早い引退。
残念でなりません。

◆植木 通彦(うえき・みちひこ)
1968年4月26日、福岡県北九州市生まれ。39歳。
福岡県立小倉商業中退。
59期生として86年11月、福岡競艇場でデビュー。
初勝利は翌月、芦屋一般戦。
初優勝は4年後、唐津での新鋭リーグ戦。
GT戦23V、SG戦10Vを含め74回の優勝を飾っている。
身長165センチ、体重51キロ。O型。
通算成績は4500走1562勝。
獲得賞金は22億6184万2369円。